第15回 企業の倫理観

現在我々は、資本主義社会に生きている。資本主義社会のもとでは、多くの人が何らかの形(従業員、経営者、株主)で企業に属することになる。では、この企業は、いったい何のために存在しているのであろうか?
近年、企業は誰のものであるかという議論においては、株主のものであるという株主優先の概念が支配的になってきている。経営者のものか、株主のものか、従業員のものか、あるいはみんなのものか、という点については、依然として議論の余地はあるように思う。しかしながら、いずれの場合にせよ、企業の目的は1つである。企業の目的は、お金を稼ぐことにある。企業にキャッシュをもたらすために、我々は毎日あくせく働いているということになる。

ではなぜ、企業にキャッシュをもたらさなければならないのであろうか?何かしらの社会的意味はあるのであろうか?

これを考えるにあたって、そもそもなぜ資本主義が生まれたのか、その背景を振り返ってみたい。

社会学の大家といわれるマクス・ウェーバによると、資本主義の概念は、禁欲的プロテスタントの中から生まれたとされている。資本主義が生まれるまでの経緯をまとめると、以下のようになる。


  1. 古代中国をはじめとして、高度に発達した商業社会の出現していた。(しかし、いずれの場合も商業が、理想的な人間の活動としての認識が広まることはなかった)

  2. 文明的な社会においては、宗教色がつよい生活をしており、金儲け=悪という概念が、支配的であった。

  3. ヨーロッパにおいて、キリスト教の発展に伴う、文化的・社会的な発達が起こる。イギリスにおいて禁欲的プロテスタンティズムが支配的となる。

  4. 自分の欲望を限界まで押し殺して、神のためあるいは、社会の幸福のために努力するという生き方に価値を置くようになる。

  5. 社会の幸福のために、個人がそれぞれ日々精進することが美徳となる。

  6. 技術の発達、商業の急速な発展が起こる。おのずと、社会は商業化され始める。

  7. 商業主義の下の“金儲け”と、社会的な価値観の基盤である宗教思想の“社会幸福”という2つの概念が合間見えることで、資本主義の概念が生まれる。


資本主義の意味することは、これまで長い人類の歴史の中で、悪とされてきた“金儲け”が、“個人の価値は、如何に社会の幸福のために最大限の努力をしていくかにある”というプロテスタンティズムの論理を介することで、社会幸福のために直結するものであるという“善”の概念に大転換したことにあるといえる。個人が、儲けたお金の量は、その人がどれだけ社会に貢献したかを示すもので、多くのお金が集まることはそれだけ望ましいという考え方である。

この、金儲け=社会幸福の精神こそが、現在の資本主義が社会のルールとして存在することのできる大前提なのである。

この資本主義の精神は、資本主義社会の中でもっとも根本的な概念であるが、ひとたび資本主義社会が自己発展をはじめると、人々は意識しなくなる。意識しなくても、資本主義は前進する。

現在の社会はまさにこのような状況にあるのではなかろうか。ただ単に、自分の欲望に任せて、金儲けに躍起になる前に、まず、この資本主義社会で、金儲けをやることの意味を、もう一度認識すべきではなかろうか。

それでは、企業を発展させ、持続的にキャッシュを生み、社会貢献を果たしていく上で、もっとも大事な要素はなんであろうか?

それは、“倫理観”ではないだろうか。倫理観がないと社会は必ず行き詰る運命にあるような気がしてならない。

というのも、資本主義社会といえども、所詮は人間が考え出した産物にすぎない。様々な矛盾を含んでいる。概念として、企業はキャッシュだけを追及していけば、それで万事がうまい具合にいくと言っても、実際問題としてはそんなことはありえない。

企業として巨大な力を持ち出した組織が、なりふりかまわず、売り上げ拡大・利益増大に躍起になれば、悲惨な状況をもたらすことになる。従業員は奴隷と化し、非人間的な生活を強いられるであろう。あるいは、裏の組織と手を結び、法律の隙間に入り込んで、不当な利益を生むような行動に出来かもしれない。

それを防ぐ唯一の方法は、人間の中に存在する倫理観でしかない。これは、人間の外にあるビジネスルール、法律といった外的な規律では、規制することはできない。内なる規範である。

ここで、一般的な企業のライフサイクルをざっと辿ってみたい。


  1. まず、社員の中での理念が共有され、事業実現のためのモチベーションが高まる。

  2. 理念実現へ向けた、事業の推進が図られる。

  3. 事業遂行の結果、価値の提供が達成され、売り上げ/利益が拡大される。

  4. キャッシュが充実し、事業の更なる拡大がなされる。


一般的に、上の1から4のプロセスを経て、企業は自己増殖的に大きくなる。
ここで、重要なことは、会社の成長というものに隠れてはいるが、実際は見えないところで多くの問題が生まれているということである。これらの問題を経営者自らが、先頭をきって解決していかなければ、会社の発展はない。普通の経営者なら、この段階で自分の成功に満足し、それまでの経験を成功体験としてとらえることのみになってしまう。結果として、新たにでてきた問題に対して、自分たち自身の問題としては受け止めず、社員や環境等の外部の責任として捕らえることが多いような気がする。これは、経営者に、人間としての、人の上に立つものとしての倫理観が欠如している所以である。

問題は、この後のプロセスである。倫理観のない場合とある場合で、この後どのようなライフサイクルを辿るのかを見てみたい。

倫理観が欠如している場合のシナリオ


  1. 会社の成長にともない、社長及び幹部社員の権力が増大する。

  2. 会社自体が、1つの社会を構成し、会社独自の規範が生まれる。

  3. 会社の内なる規範が、優先されるようになり、いつの間にか、起業理念は薄らいでゆく。

  4. 会社の私物化が始まる。次第に、会社は硬直化し、モラルの低下、無規範化していく。


強い倫理観が存在している場合のシナリオ

  1. キャッシュの充実に満足することなく、カスタマー志向を継続的に実施する。

  2. 成功体験から脱却し、新規の経営思考を追求する。

  3. 新規事業の戦略を立案し、経営プランを作成する。

  4. 組織の再編を実行する。硬直化の回避。

  5. 更なる発展。 


企業に倫理観を埋め込むことが、資本主義社会のもっている特徴を生かした社会発展につながっていくように思う。つまり、企業がどうやったらお金が儲かるかということに注力しさえすれば、結局は、我々一般市民のニーズを満たし、より充実した生活が送れるようになるという資本主義のルールが健全に働くようになるのである。そして、企業に倫理観を埋め込むことができるのは、経営陣でしかないである。

倫理観なき企業は社会に存在する価値はない。今すぐ、市場から退散しなければならない。なぜなら、倫理観なき企業の存在は、資本主義の大前提に真っ向から反する行為なのであるから。


2003年12月
山田 拡行